イスラム国の前に連合赤軍について
イスラム国に本格的に取り組みたいと考えていますが、その前に連合赤軍について本を読むことにしました。理由はそう、「なんとなく」です。で、上の本を読み始めたんですが、のっけから違和感。一体なぜこんなに違和感を感じるのか?
まず、大学の自治についての闘争について。佐藤優の本を読んでても違和感を感じたのですが、なぜ、この時代の学生はこうも学生自治にこだわったのか?例えば、
(前略)これまでの大学の自治は、このような政府の大学政策に従属している限りで許された特権にすぎず、本当の意味で自治でないこと、このような大学では、本当の意味での学問は成り立たず、従って、このようなところからは、人民に奉仕し歴史の発展に貢献しうる学問は発展してこないこと、などを理解した。(P56)
この辺は、まぁ、理論してわからなくもない。中世ヨーロッパにあった大学への憧れ半分という動機も、その理論展開も。私立大学の場合はどうなのよ?と思わなくもないが、政府が定める大学の規範に沿っている限り(私立大学だとしても政府の影響がある限り)、そして真の学問ではなく、政府や企業が求める人材を育成する場でしかないのならば、大学としての意味がない、この道理はわかるのだ。が、それが武力闘争になる理由が、しかも学生内で闘争になる理由がいまいち実感できないのです。まぁ、サークル用の部屋の貸し出しとかで大学当局と学生で揉めることは今の大学にも多少あるでしょうが、学長の選出に学生の意見が反映されないことに対して、こうも過激に反応する学生は滅多にいないと思われる。これもまた佐藤優の自伝にも書いてあった気がするが、大学の中に私服警官が入り込んできたからリンチした、拘束した。こういう話は現在の大学では、まずないだろう。ってか、普通にね、警官が制服姿で入ってきても「大学の自治が侵害されたー!」って憤る学生はいないと思うよ。「あら、なんか学内で事件でもあったのかしら?やーねー、怖いわねー」きっとこんなもんである。
そして、授業はどうした?活動家が大学の授業をほっぽらかしで、オルグやらビラ配りやらデモに勤しむのはわかる。が、一般学生はこのような環境下できちんと授業を受けることができたんだろうか?今回の本を読むと、どうも授業が政治討論に費やされている場合もあるようだ。ちょうどベトナム戦争の頃なので、全体的に左翼系活動に対するシンパが多い時代だったとはいえ、授業が学生活動によって潰れるイメージがどうしてもできない・・・一般学生は、活動家の暴力が怖くて黙ってたのかしら?教官は?図書館や本屋で見かける本は、基本活動家からの視点が多いので、どうもその辺の空気がわからない。
そして、授業を潰すといえば、集会の多さも今の大学生には奇異に映るのではないだろうか?学生会議やら、クラス討論会やら、事あるごとにいちいち集まって議論しているのである。ただ、これは通信手段等の変化も影響しているのかもしれない。昔は物理的に集合をかけなければできなかった事が、今はネットで可能だ。それこそ、ライングループとか、グーグルドライブとか。ネットの世界は、それはそれで過激になりやすいものだが(特に匿名の場合)、集団の場合は、顔を付き合わせる事でお互いの熱意が伝播しあって、より過激になってしまうのかもしれない。
まだまだ最初の方しか読んでいないため、今のところはこの程度の感想なのですが、一番感じた事は「やっぱり大学生って暇なんだな」ですよ。私も当時は暇という認識なく、しかし実際は暇でブログを書き散らしていた。高校に比べると学校やら親の強制力が落ちる分「大人になったつもり」、大人になった自分は社会の様々な問題に「取り組むべし」、でも根本的には暇な若い人間の集団なので、暴力的になった・・・ってところかしら?「若さ」と「暇さ」、この二つが融合するとろくな事にならない、というのは、世界中に例がありますからね。とはいえ、大人も暇じゃないから無関心で良い、わけはない。でも、「それなりに関心はあるんだけどね。ほらね、明日仕事で遅くなるのが分かってるから、今日は早く寝なくちゃいけないの。だって歳なんだもん。回復できないのよ・・・」「君達も10年後にわかるさ。」若い人間にはこの言葉は許せないものです。特に、大人の仲間入りをしたと信じ込んでいる人間にはね。
最後に。これは書こうか書くまいかちょっと悩んだのですが、調べてみると面白いかもという視点として、一応書いておきます。「SEALDsとの違いはなんぞや?」あ、別にSEALDsのことを過激派扱いするつもりはありません。ただ、同じ学生運動として比べてみる姿勢自体はあっても良いし、それは誰も非難すべき事ではない。例えば、勉強会(サロン?)で読んでいる本の違いとか、デモの動員方法とか。そもそもの目的も(なんとはなくは似てますが)違うし、完全に一対一で比べる事は難しいですが、しかし比べる事によって、昔の過激派が何故過激になったのか、それは思想ゆえか、目的ゆえか、時代か、それとも「暇と若さ」ゆえなのか、そういうことが浮かび上がってくるのでは?と思います。そしたらさ、今後の社会安定に応用できると思うんだよねー ま、それを「統制だ」「ビックブラザーの登場だ」という人もいるんでしょうけど。